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徳島家庭裁判所 昭和61年(家)481号 審判

申立人 内山茂夫

主文

申立人が、次のとおり就籍することを許可する。

本籍     ○○県○○市○○○町×丁目××番地

氏名     内山茂夫

生年月日   昭和17年11月16日

父母の氏名  不詳

父母との続柄 男

理由

(申立の実情)

申立人代理人は、主文同旨の審判を求め、その申立の実情として要旨次のとおり述べた。

1  申立人は、昭和20年9月から11月の間ころ中国東北部(当時の満州国)黒龍江省方面からの難民列車で母、弟とともに当時の奉天駅に到着し、同駅近くの臨時難民収容所に収容されていたが、たまたま瀋陽市在住の中国人王向仁、呂玉蘭夫婦に引き取られ、事実上その養子(公的には両名の実子として届け出られた。)となり、王揚文と命名され同市において成長した。

2  申立人は、昭和48年中国人宋麗秀と結婚し、長男、長女をもうけて現在に至っている。申立人は幼時の記憶などから自分は日本人であると思っていたが、昭和58年中国政府が積極的に日本人孤児の肉親探しに協力するようになったことから瀋陽市外事科職員の勧めにより、北京駐在日本大使館と日本国厚生省に肉親探しの依頼書面を提出し、昭和61年2月22日から同年3月3日までの訪日調査に参加したが、肉親を探し出すことができなかった。

3  申立人は、母が日本人であったことが明らかであるから、旧国籍法1条または3条の規定により出生時から日本国籍を有していたものであり、申立人は養父母により中国人として届け出られてはいたが、自らの意思で中国籍を取得したものではないから日本国籍を喪失していない。しかし、本籍が明らかでないので、主文同旨の就籍許可の審判を求めて本申立をした。

(当裁判所の判断)

1  本件記録にあらわれた各資料並びに申立人および参考人宋麗秀に対する各審問の結果によれば、次の事実が認められる。

(1)  申立人は、昭和20年秋ころ中国東北部(当時の満洲国)の奉天市(現在の瀋陽市、以下瀋陽市という。)より北の地方から難民列車で母、弟(妹も母に背負われて避難していたが、途中列車内で死亡した。)とともに奉天南駅(現在の瀋陽南駅)に到着し、当時臨時難民収容所にあてられていた同駅貨物置場に収容されていたが、母も病気に倒れたことから、同年10月ころたまたま子供がなく日本人の養子を求めていた瀋陽市在住の中国人王向仁、呂玉蘭夫婦(以下、養父母という。)に弟と共に引き取られ、事実上その養子(公的には両名の実子として届け出られた。)となり、王揚文と命名され同市において成長した(なお、弟はその後別の中国人に引き取られたという。)。

ところで、ソビエト参戦直後である同年8月以降の中国東北部の情勢から見ると、列車で瀋陽市に避難してきたのは、おおむね同市より北方に入植していた日本人開拓団員や軍人軍属などで、ソビエト参戦により同国軍から逃れて大連港を経由して帰国しようとしたものと考えられる。他方、満洲国政府に深く関係した中国人などもソビエト参戦後逃走したものと考えられるが、これらが日本人と行動を共にする利点はすでになく、かえって中国人などから襲撃を受けるなどの危険があったことを考えると、一般には中国人等が日本人と同様な避難方法をとったとは考えにくい。

(2)  申立人の幼児期の記憶は鮮明ではないが、母が日本の着物を着ていたことのほか妹を帯で背負って避難していた記憶があること、着物はもとよりであるが、子供を帯で背負う習慣も中国人などにはなく、日本人特有のものであると考えられる(宋麗秀の審問結果ほか)。

(3)  養父母が生前、申立人に対し、同人が日本人の子供であったことおよび同人を引き取った事情を話し、申立人も結婚以前に、妻に対し、その事情を打ち明けている。当時の養父母の親族はもとより養父母方の近隣の人もその事情を知っていた。(申立人および宋麗秀に対する審問結果、周子建作成の「証実」と題する書面、程子華作成の「証実材料」と題する書面2通)申立人および弟は、養父母に引き取られた当時日本語を話しており、中国語が出来なかったことなどのため、養父母は申立人が養子であることを隠すなどのため一度転居したにもかかわらず、新住所の近隣の人々、小学校の担任、同級生なども申立人が日本人であることを知っていた。(柴樹藩、聶鳳智、徐向前作成の各証明書)

(4)  ○○県警察本部刑事部鑑識課警察技術吏員○○○○○作成の鑑定書によれば、申立人の右上腕部には、4個のケロイド瘢痕(それぞれの大きさは16mm(ミリメートルの略以下同じ)×14mmないし17mm×17mm)が認められ、その各瘢痕は、左右の間隔約34mm(上部)ないし35mm(下部)、上下の間隔約69mm(向かって左)ないし72mm(向かって右)の長方形に近い四角形を形成し、これと類似するケロイド瘢痕はほかに認められないこと、4個の瘢痕のうち鮮明な3個のそれはいずれも陥凹が少なく、ケロイド中の潰瘍痕が類似していることから同様の原因によって発生した陳旧性ケロイド痕と考えられることなどを総合すると、これら4個の瘢痕は種痘痕と認めるのが相当である。

申立人は、小学校へ入学してからは種痘をした記憶がないと述べるので、この種痘は申立人の幼時すなわち養父母に引き取られる前になされたものと考えられる。

ところで、満洲医科大学教授北野政次の論文「満洲に於ける急性伝染病」(昭和16年2月第1輯、大陸伝染病学会)宋麗秀の審問結果及び家庭裁判所調査官の調査報告書中の当時満洲国にいた開拓団員や医師からの電話聴取書等によれば満洲国には、日本のような種痘法は制定されておらず、伝染病予防法中に種痘に関する規定があったが、満洲国における種痘の実情は、同地の中国人とくに未就学者の多い貧農についてはこれがほとんど普及していなかったといってよい状況で、ただ同国在住の日本人には相当程度種痘が施されていたと認められる。なお、中国人に対して一般的に種痘がなされるようになったのは中華人民共和国成立後である。日本の種痘の仕方は2列4個が普通であった(宋麗秀の供述によると所沢市所在の中国帰国孤児定着促進センターにおいて同女が見聞したところでも日本人孤児数人の種痘痕は例外なく4個であったという。)が、中華人民共和国においては1列2個が普通である。(宋麗秀に対する審問結果)

(5)  申立人は、公式の文書は提出されていないものの中国政府により中国残留日本人孤児であることの認定を受けたものと思われ(中国政府の口上書、ただし国籍取得を支援する会の日本語訳による)、昭和59年2月在中国日本大使館および日本赤十字社に対し帰国申請書を提出し、厚生省援護局作成にかかる昭和61年1月分の「訪日する中国残留日本人孤児名簿」に登載され、同年2月第10回中国残留日本人孤児の肉親捜しのための訪日調査団の一員として日本を訪れたが、肉親を探し出すことはできなかった。

2  以上認定の事実に当時の満洲国における日本人の事情を総合考察すると、申立人は弟、妹とともに日本人の家庭で育ったこと、父については不明であるが、少なくとも母は日本人であったことが認められ、そうすると、旧国籍法(明治32年法律第66号)3条により申立人は出生により日本国籍を取得したところ、申立人は、王向仁夫婦の事実上の養子となり、形式としてはその実子すなわち中国人として届けられていたが、これは申立人の意思によるものではなく、その後申立人において自ら中国籍を取得したと認めるべき資料もないから、申立人は日本国籍を喪失していないと解するのが相当である。

3  申立人には、現在その本籍はもとより日本人としての氏名、生年月日、両親の氏名などが判明していないから、ひとまず次のとおりの就籍を許可するのが相当である。

(1)  申立人は、本籍を○○県○○市○○○町×丁目××番地、氏名内山茂夫、生年月日昭和17年11月16日として就籍を希望しているので、その希望どおりこれを認めるのが相当である。

(2)  生年月日についても記録上明らかでないが、申立人が長年にわたってこれを昭和17年11月16日として使用していること、そしてこれが証拠関係を総合して推認される申立人の年齢と大きく食い違うものではないと認められるから、申立人の希望どおり認めるのが相当である。

(3)  申立人の父母の氏名は不詳とすべきである。

(4)  申立人は男性であるが、その父母の法律上の婚姻関係が明らかでないから、申立人と父母との続柄についてはこれを「男」とすべきである。以上のとおりであるから、申立人については主文掲記のとおり就籍を許可することとする。

よって、主文のとおり審判する。

(家事審判官 虎井寧夫)

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